トロイはアナトリア、エーゲ地方そしてバルカン半島の間の接合点にある、オリエントの都市のユニークな一例である。トロイの第2層と第6層は、城や行政用の建物を囲む壮大な要塞とともに古代都市に特有な一例であり、これも要塞化された広い低地の町に囲まれている。トロイは、イリアスを書いたホメロスとアエネイスを書いたヴェルギリウスの世界的に重要な文学作品とともに連想される都市である。ヘレニズムの特色のある古墳が、アキレス、アイアス、ヘクトルやパトロクロスといった英雄の埋葬地とされる地に建てられた。
トロイへの人の定住は青銅器時代の初期に始まった。最初の防御壁が紀元前3000年ごろ要塞の周りに建てられた。それから第6層にあたるトロイの地が広がり、重要な商業ルートとともにエーゲ地方の最大の都市の一つとなった。紀元前1350年に地震が起こり、トロイ第6層は決定的なダメージを受けたが、街はすぐに復興し、以前よりもより整備された。紀元前1250年ごろの広範囲な火事と虐殺で、トロイ第7層の時代は終止符を打ち、イリアスに書かれているように、街がトロイ戦争の間ギリシア人に攻略されこのような姿になったことが確認できる。
トロイ戦争勃発の本当の理由は、トロイとミケーネ王国の間の激しい商業的競争である。紀元前306年には、トロイはトロアド地方の同盟都市における首都となり、紀元前188年にはローマによってホメロスのイリオンとして、ローマの主要都市(イリウム・ノヴム)として認められた。街はローマの支配の下で繁栄し、6世紀初期の激しい地震に耐え抜いた。街は9世紀に一度見捨てられたが、後のビザンチン時代に再び支配を受け、オスマン時代まで街の状態は保たれた
。 この地の現代の歴史と、その後の調査と管理は、遺跡が見つかった1793年まで遡る。街は学者達によって1810年にまずイリオン、それから1820年にトロイとみなされた。ハインリヒ・シュリーマンは1868年に初めてこの地を訪れた。1873年に彼は有名な金の宝庫を発見したが、それはトロイ第7層ではなく第2層のものとされる「プリアモスの宝」として解釈された。1世紀以上も続いた発掘により、要塞の周りの防御壁、11の門、石で舗装された傾斜、そして低地の防御用の要塞といった23の遺物が発見された。トロイ第2層の大きな住宅地は、5つの長い平行な建物から成っている。この中で最も大きなものは、ギリシアの寺院のプロトタイプを表していると考えられている。
ローマの都市構成は、アゴラの端の方にある、2つの主要な公共用の建物に反映されている。コンサートホールは伝統的な蹄鉄の形の設計をしており、石灰岩の塊でできた座席の列がある。周りの景観には、多くの重要な先史・歴史時代の地(共同墓地、ヘレニズムの特徴のある埋葬塚、ギリシアとローマの居住地、ローマとオスマン時代の橋)が見られる。
トロイ古代都市は1998年以来ユネスコ世界遺産リストに登録されている。
トロイ戦争
伝説によると、大神ゼウスは、増えすぎた人間の人口を調整するために、大戦を起こして人類の大半を死なせるという決意をしました。オリンポスでは人間の子ペーレウスとティタン族の娘テティスの婚礼が行われていましたたが、争いの女神エリスだけがこの宴に招待されず、怒った女神は、最も美しい女神に捧げると叫んで、黄金のりんごを神々の座へ投げ入れました。これをめぐりヘラ、アテナ、アフロディテによる激しい対立が起こり、ゼウスはこのりんごが誰にふさわしいかをトロイの王子パリスに委ねました。
三女神はそれぞれ最も美しく装い、ヘラは世界を支配する力を、アテナはどんな戦争にも勝つ力を、アフロディテは最も美しい美女をそれぞれ与える約束をしました。パリスは愛を選び、アフロディテの誘いによりスパルタ王メネラオスの妃ヘレネを奪い去りました。メネラオスは兄でミュケナイの王であるアガメムノンに協力を求め、かつオデュッセウスも加わって、ヘレネ奪還とトロイ懲罰の遠征軍を組織しました。
戦争は、双方に犠牲を出しながら9年が過ぎ、膠着状態に陥りました。アカイアの知将オデュッセウスは、巨大な木馬を作ってその内部に兵を潜ませるという作戦を考案し、敵の城門の前に木馬を置き去りにしました。トロイ側は、アカイア軍が木馬を残して逃げたと思い込んで喜び、木馬を陣内に引き込みました。中に潜んでいた兵が夜になって襲い掛かると、トロイは一夜で陥落してしまいました。