サフランボル市街は、今日まで残存する典型的なオスマン都市である。サフランボルではまた、地形と歴史的集落の間の興味深い相互作用も見られる。何世紀にもわたるキャラバン貿易の鍵となる役割が価値を持ったことから、サフランボルは大いに繁栄し、結果として、オスマン帝国の広い地域にわたる都市の発展に多大な影響を与える公共建築のスタンダードとなった。建物と通りの建築上の形はその時代を象徴している。キャラバン貿易は何世紀にもわたってオリエントとヨーロッパの間の主要な商業上のつながりとなっていた。結果として、一つの型を持つ町々がそのルートに作られるようになった。19世紀に鉄道が開通すると、これらの町はその存在理由をなくし、そのほとんどは他の経済基盤に順応した。サフランボルはこのような影響は受けず、結果としてそのもとの姿を保つことができた。 サフランボルの地域には、岩を切ってできた墓から証明されるように、先史時代から人が住んでいた。トルコ族は町を11世紀に占領し、13世紀にはその地は東西商業ルートの重要な主要地点となった。この時代の初期から残る建物として、オールド・モスク、オールド・バスそしてスレイマン・パシャの神学校があり、すべて1322年に建てられた。

キャラバン貿易は17世紀にその絶頂期を迎え、その時期には中央の市場が旅行者の要求に応えて拡張された。多くの建物がこの時期から残っており、キョプリュリュ・モスク(1661)、レト・パシャ・モスク(1796)が多くの貯蔵庫や厩舎、そして温泉などとともに存在している。商業構造の変化と鉄道開通により、20世紀初期にこの絶頂期には終止符が打たれた。町はカラビュク製鋼所が建てられるまで経済破綻したが、その後はその製鋼所のおかげで、地域の雇用事情は大幅に改善された。

サフランボルは4つの区から成っており、チュクルとして知られる市内のマーケット場、クランキョイ・エリア、バーラル、そして歴史地区から外れた今日的なエリアとなっている。もともとのトルコ人の居住地は、要塞の南を下ったすぐの所にあり、南東に向かって発展した。

チュクルの名は、そこが町の低地に横たわっていることに由来する。その中央は市場となっており、革製品、鍛冶屋、馬具屋、靴屋そして服屋などの職人の作業場や家に囲まれている。その地域は三角形の形をしており、2つの川がその境界である。

クランキョイはかつてイスラム教徒のいない地域であり、現代ヨーロッパの町のそれと似た社会建築様式が特徴である。

チュクルとクランキョイの道は、狭くカーブがあり曲がっている。より古い家は木骨造りである。通りに面した方には窓がなく、石の壁を庭の壁の広がりに似せている。メインの部屋は1階にある。天井の多くは曲がっており、色が塗られている。

サフランボル市街は1994年以来ユネスコ世界遺産リストに登録されている。

ディプスィズ湖

ヨルック村とサフランボルの間にディプスィズ湖があります。伝説によると、昔々、コナル村の美しい娘と美男の遊牧民の若者がお互いに恋していました。遊牧民の若者は、娘の父親に、娘をくれるよう頼みました。しかし父親は、娘を遊牧民の若者には渡せないこと、なぜなら娘をとても大事にしていて、娘が村からいなくなるのに耐えられないからだと言いました。このため若い2人は、一緒に逃げることにしました。今のディプスィズ湖のあるところで、朝に待ち合わせて逃げる計画を立てました。若者は待ち合わせの場所にやって来ましたが、娘はどうしても家から出られませんでした。若者は娘が来ないのを見ると自殺しました。若い娘は後から待ち合わせの場所にやって来ましたが、恋人が死んでいるのを見ると自分も自殺しました。

この若い2人がお互いに逢えずに死んだ場所に、ディプスィズ湖ができました。湖のほとりには、金曜日の朝になるといつも、2羽の緑色の頭をしたカモが見られるようになりました。この2羽のカモは、死んだ2人の恋人であると信じられています。