クサントスは古代を通して、2つの地で見つかった多くの碑文が示しているように、リキアに直接影響を与えていた。古代世界七不思議の一つ、ハリカルナッソスの陵墓は、クサントスにあるネレイド(50人の海の精の1人)のモニュメントの系列である。

リキア人は、紀元前1200ごろにヒッタイト帝国に侵略した「海の民」の一派である。ヘロドトスは彼らが、トロイ戦争に参加するためにクレタ島からやってきたと述べている。その長い歴史を通して、この民族は、2つの明らかに矛盾した性格を持っている。最初の地では彼らは自分達の伝統に極めて忠実だった。リキア語はとても長い歴史を通して保たれていた。今日でさえこの地の農民は、構造がリキアの岩の墓に見られるモニュメントと比較できる構造を持つ木造の家や納屋を建てている。彼らの2つ目の性格は、ヘレニズムとローマの文化に融合するキャパシティを持っていることである。町にはビザンチン時代もなお住人がおり、その時期にはいくつかのバシリカが建てられた。7世紀になってアラブの襲撃により街は廃墟と化した。

クサントス川の東は、古いリキアのアクロポリスを含んだ最初の記念碑的なゾーンで、そこはヘレニズムとビザンチン時代に建て直された。当時、ある教会が北東の端に建てられ、また先進的な防衛上の構造により川沿いの砦の西側が要塞化された。アクロポリスの北側には、ローマのアゴラにそびえ立つとても美しい劇場が建っている。この地全体に、クサントスの考古学的景観に特有なすばらしいリキアの古墳がある。またここには、2つ目のより複雑な、南のヴェスパシアヌスのアーチと、北のヘレニズム的アクロポリスの間にのびる考古学ゾーンがある。ここは街の低地の部分が位置する場所である。

レトーンの考古学地域は女神レト、アルテミスそしてアポロンに捧げられており、ハドリアヌス帝時代まで遡る、ニンフを祭った岩屋の遺跡を含んでいる。

リキア語、アラム語そしてギリシア語の3言語で書かれた有名な碑文は紀元前358年にまで遡るもので、レトーンのアルテミス神殿の近くで発見された。リキア語で書かれた最も長く最も重要とされるテクストが見つかったのはクサントスとレトーンにおいてであり、そのほとんどが岩か、巨大な石柱に刻まれている。それらは動かすことのできない、遠い昔に消滅したユニークなインド・ヨーロッパ語の主要なモニュメントである。岩の墓、岩柱の墓、岩柱に固定された石棺は、古墳の建築の奇抜な型を表している。クサントスとレトーンにあるリキアの墓の豊かな並びにより、紀元前6世紀からのリキアにおいての継続的な文化変容の現象を理解することが可能である。

クサントス-レトーンは、1988年以来ユネスコ世界遺産リストに登録されている。